これは、さなえちゃんが小学四年生の頃のお話です。
ある朝、さなえちゃんはいつものように、お友達のはるかちゃんをむかえに行きました。
小学校へ一緒に登校するのが、日課だったからです。
「おはようございます。はるかちゃんは起きてますか」
さなえちゃんは、礼儀正しく挨拶をしました。
はるかちゃんのお母さんは、
「おはよう、さなえちゃん。はるか、さなえちゃんがむかえに来てくれたわよ」
と言って、台所へ入って行きました。
しばらくすると、はるかちゃんが、まだ口をもぐもぐさせながら出て来ました。
少しきげんが悪そうです。きっと、いつものように、寝坊をしたのでしょう。
さなえちゃんが「やれやれ、困ったさんだなぁ」と思っていると、はるかちゃんは「おはよう」の挨拶もなしに、ひどくビックリした様子で、さなえちゃんを見つめました。
「ちょっと、さなえちゃん、その顔どないしたんや」
「えっ?」
「どないしょ、えらいこっちゃ」
さなえちゃんはおどろいて、自分の顔をさわりました。
お顔はきれいに洗ってきたし、おさげもちゃんとむすべています。
へんだな、何かの冗談なのかなと、さなえちゃんは首をかしげました。
「そうか。ごめん、何でもないねや。学校、行こうか」
はるかちゃんはランドセルを背負うと、「いってきます」の挨拶もなしに、家を飛びだしました。
「ああ、いつものくせかな」とさなえちゃんは納得して、後を追いかけました。
はるかちゃんはときどき、奇妙な事を言うくせがある女の子でした。
小学校に入ってすぐの頃は、毎日奇妙な事を言っていました。でも、最近はあまり言いません。
男の子たちに泣かされたり、さなえちゃん以外の女の子たちから、仲間外れにされたりするからです。
友達を仲間外れにするのは、とてもよくない事です。
さなえちゃんは、そんな事をしてはいけないと、いつもおもっていました。
とても、気持ちの良い朝でした。
スズメ達も、元気よくさえずっています。
ふたりは仲良く並んで、小学校へ出発しました。
はるかちゃんの家を出発して、まもなくの事です。
急に、はるかちゃんがさなえちゃんの手を引っ張りました。
さなえちゃんはびっくりして、「どうしたの?」とたずねました。
でも、はるかちゃんは「何でもない」としか答えてくれません。
しばらく歩くと、また手を引っ張ります。
「はるかちゃん、痛い」
「ごめんな、かんにんな」
はるかちゃんは、あやまりました。
「どうしたの?」
「何でもないねん。かんにんしてな」
さなえちゃんは、はるかちゃんがあやまってくれたので、嫌な気持ちにはなりませんでしたが、不安に思いました。
どうしたんだろう。今日のはるかちゃんは、とてもきげんが悪そう。
また学校で、ヘンな事を言わなければいいんだけど。
さなえちゃんは、心配しました。
学校が見えてきた頃、はるかちゃんがまた、さなえちゃんの手を握りました。
でも今度は、引っ張らずに、そのままさなえちゃんの足元をにらみつけます。
「何を考えてんねや、ええかげんにしいや!」
突然、はるかちゃんが大声を出しました。
さなえちゃんはビックリして、少し飛び上がりました。
「おっさん、頭おかしいんとちゃうか。変態。●●●。いてもたろか、●●」
さなえちゃんは泣きそうになりました。
今日のはるかちゃん、こわい。
どうして、そんなひどい事を言うの?
一体、だれに言っているの?
ごぼり。
足元から、水音。
突如湧き上がる腐乱臭。嘔吐感が襲う。
さなえの、真下。
影の中に、薄ら笑いを浮かべる男がいた。
腫れぼったい目には血が滲んでいる。
前歯のない口から、泡立つ吐瀉物が溢れていた。
強い目眩。恐怖。胃液が逆流する。
さなえが、下を向いた。
だめ。見るな。見るな。
瞬時に、顔色が変わった。
全身を岩のように硬直させ、悲鳴を上げる。
ごぼり。ごぼり。ごぼり。
男は、笑っていた。
真っ黒な舌が、おぞましい液体の中で踊っている。
居なくなれ。消えろ。消えろ。
手が、伸びてくる。
肘間接が幾つもあるかのような、いびつな動きで、手が伸びてくる。
さなえの細い足に、割れた爪が触れようとしたその瞬間、
はるかちゃんの真っ白な靴が、きたならしい顔をふみつけました。
ずるり、と靴が滑りました。
何度も、ふみつけます。
何度も何度も、ふみつけます。
いやな音が、静かな通学路にひびきました。
「しね!もっぺんしね!」
気を失いそうになっているさなえちゃんの手を、強く引っ張って、はるかちゃんは走り出しました。
そして、後をふり返ることなく、そのまま学校へ飛び込みました。
その日さなえちゃんは、一時間目の途中に、お母さんがむかえに来て、早退してしまいました。
とても、怖い思いをしたので、調子が悪くなってしまったのです。
はるかちゃんは、自分の責任かもしれないと思って、悲しくなりました。
さなえちゃんに気づかれずに、きもちの悪いものを追い払えていれば、そんな事にはならなかったかもしれないと思いました。
でも、大声を出すしか、追い払いかたを知らなかったのです。
とても、悔しい、やりきれない思いで、胸がいっぱいになりました。
とても天気の良い日で、運動場からは元気の良いかけ声が聞こえていました。
はるかちゃんは教科書でお顔をかくし、教室の隅で、静かに泣いていました。
