「怖い話?ああ、あるわよ。でも、今は駄目」
小さなスナックのママをしている美鈴さんは、そう告げてタバコの煙を吐いた。
なぜかと問い掛けて話をせがむと、彼女はこう答えた。
「ここでは駄目なの」
次の日に約束を取り付けて、近所のファミレスで待ち合わせると、とりあえず携帯の電源を切ってくれという。
「大丈夫とは思うけど、念のため」
そう断ってから、彼女は話を始めた。
当時、美鈴さんの店はまだその場所にオープンしたばかりで、手伝いをしていたコンパニオンの女の子は、二人とも彼女の学校の後輩だった。
恵子さんと里美さん。共にスレンダーな美人。
やはり美人で面倒見がいい美鈴ママの人気も幸いして、店にはいつも客足が絶えなかったという。
ところが、美鈴さんの後輩で香川という、女癖の悪い男がいた。
この香川がいつの間にか、恵子さんに手を付けていた。美鈴さんが気付いた時、男はすでに彼女のアパートに転がり込んでいたという。
後輩として面倒は見ていたが、その女癖の悪さを知っていた美鈴さんは、里美さんと二人で恵子さんに香川と別れることを勧めた。しかし、男性経験の浅かった彼女は、「彼は本気」の一点張りで、その申し出を聞き入れなかった。
「どうやら、初めての男だったらしいのね」
だが、香川はまた他所に女を作り、金目のものを見繕って恵子さんのところから出て行った。絶望に打ちひしがれた恵子さんは、睡眠薬を呷った。
「親と険悪だったから連絡先が店になってて、大変な騒ぎになっちゃって…」
搬入先の病院ですぐさま蘇生措置が取られたが、恵子さんの意識は戻らなかった。
入院八日目。
絶望を宣告する医師の呼び掛けで両親や親戚が病室に集まったそのとき、彼女の意識は奇跡的に舞い戻った。
喜んだ美鈴さんと里美さんは、見舞いの花束を抱えて彼女の病室を訪ねた。
ひと目見て、その変調はわかったという。
にこにこと微笑みながらベッドから上体を起こす彼女の視線は、二人を通り越している。
「おばあちゃん、あなたは死んでいるんだから、こんなところにいたら駄目」
「恵子、あんた、誰と話してるの?」
「そこにいるおばあちゃん。早くしないと、私みたいになっちゃうから」
もちろん、彼女の指差す場所には誰もいない。
「どうしたのよ、恵子?」
「あのさあ、二人とも、私の言うこと、信じてくれる?」
彼女の口から出された言葉は、とんでもないものだった。
「私ね、もう死んで七日経ってしまったときに意識だけ引き戻されちゃったんだ。だから魂がここにいないの。意識と身体は生きてるけど、もう魂は死んで抜けちゃってるの」
視線がいってしまっている。焦点が合っていない。
生きている死人の目。
「どうしちゃったの、あんた?」
「美鈴ママ、昨日持ってたヴィトンのバッグ、あれいいね」
美鈴さんは引き攣った。
「里美ちゃん、昨日は変なお客にからまれて大変だったね」
思わず二人は顔を見合わせた。
まだベッドから起きあがれない彼女が、なぜそんな事を知っているのかと。
美鈴さんと里美さんは、何かから逃れるように病室を出た。
最後に恵子さんは、「またね」と手を振った。
「そこから彼女は、深刻な脳障害が残ったとかで完全看護の精神病院行き。転院するまでに二回ほどお見舞いに行ったけど、躁鬱の症状がひどくて、お医者さんや看護師さんに、鬼がいるとか亡者がいるとか三途の川が見えるとか喚きまわって凄かったわ」
美鈴さんは、いなくなった恵子さんの代わりに女の子をひとり雇った。
ところが。
精神病院にいるはずの彼女が、店に姿を現すようになったという。
店が暇になり、三人で恵子さんの話題に触れると、突然店の中の空気が変わる。
誰かが、じっとこちらを見ているような視線。
ぞっとして口を噤むと、チリンとドアのチャイムが鳴る。
「美鈴ママ、外に恵子ちゃんいるけど、戻って来たの?」
と、入店してきた常連さんたちが奇妙なセリフを口にする。
無論、外には誰もいない。
また、あるときは、馴染みのメンツが恵子さんの思い出話で盛り上がったとき、
「うっ、わぁ…!」
ひとりの男の子が凄い悲鳴を上げた。
「恵子ちゃん、カラオケのとこに立ってたっていうの。どろんとした幽霊みたいな顔をしてたって。嫌な予感がして次の日、彼女の実家に電話したわよ。そしたら、あの子、まだ錯乱症状がひどくて面会謝絶だけど、生きてるのは間違いないって」
そんな事件が相次いで奇妙な噂が広がり、恵子さんを知っている常連の客たちは少しずつ店に寄り付かなくなってきた。客足が遠のくと当然店は暇になって来る。
しかも、新規で雇った女の子が店を辞めると言い出した。
理由を尋ねると「ママたちが恵子さんの話をしているときに、お酒の棚の隙間から、じっとこっちを見ている女がいた」という。
「言っとくけど、棚の向こうは壁」
頭に来た美鈴さんはその晩、店を早仕舞いしてボトルを開け、そこにいない恵子さんに向かって、思い切り毒づいた。
「ロックで濃いやつガンガンやって、恵子ふざけんなよ、何か怨みでもあんのかよ、と里美と怒鳴りまくったの。そしたらね…」
リーン、と電話が鳴った。
美鈴さんは引き攣りながらも電話を取った。
すると。
びゅううううう…、と強い風の唸る音が聞こえてきた。
次に響いて来たのは、呻き声。
それも、一人や二人ではない。
受話器の向こうで、何百という数の人間が、地の底から放つような、憎しみと呪詛に満ちた呻き声を上げている。
それらの声に混じって、少しトーンの外れた、力ない声が聞こえた。
「もしもし、美鈴さんですか?恵子です…」
慌てて受話器を叩き付けた。
「店で名前を呼ぶと、どっかから来るのよ、あの子…」
電源の切れている携帯が鳴るわけはない。安心したように美鈴さんはタバコを咥えた。
「恵子、どこから電話掛けてきたのかな?常識的に考えれば病院からなんだろうけど、私はそう思ってない。あそこにいるのは抜け殻よ。自殺者の魂は地獄行きっていうから…」
