毎日午前中に更新中!
← |
2023年2月 |
→ |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
|
|
|
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
|
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
|
|
|
|
|
今年の超-1も、残すところは著者推薦のみとなりました。 「誰が書いたかわからない」と言う状態で個々の作品本意で講評を頂戴し、全ての点数が出揃ったところで、なお個人名を伏せてエントリーNoで「好みの書き手」を推していただく「著者推薦」。 今年の「最後の質問」の中にあった質問を、超-1出身者のお三方にも一筆書いていただきました。 超-1/2008のコラム最終回のテーマは「超-1への参加で得たもの、失ったもの、自分自身の変化はありましたか。主催者に言いたいことはありますか。そして、ズバリあなたにとって超-1とは?」です。長いです。
超-1という「駒を振り出す瓢箪」で、力任せにブン回された経験をお持ちのお三方は、本当のところどうお考えなんでしょう。
雨宮淳司
雨宮イアンです。 「超-1への参加で得たもの、失ったもの、自分自身の変化はありましたか。 主催者に言いたいことはありますか。そして、ズバリあなたにとって超-1とは?」……ですね。 長っ……。
私は今年の超‐1/2008へ顔出ししているわけですけれども、これは別にもうやんなくてもいいというか、露出すればするほど超‐1の性格から鑑みて反発を受けたりするのは分かりきっているので、実はやらないほうが無難なわけなんですよね。 けど、スッキリしてなかったのがまず講評。これが未コンプリート。 これは、全部やってないことのほかに、実は講評をやって「恨みを買っていない」ということに自分としては「それじゃいけないだろう」というモヤモヤしたものがありました。 なんでか。 これは2006の時の講評に、随分と新鮮な痛みを覚えさせられた経験からずっと思っていることで、あの偉そうで傲慢な(笑)講評者というものに一度ちゃんとなっておかなくては、何だか超‐1の半分しか経験したことにならんのではないか、と。 「与えられる痛み」は経験したが「与える痛み」は分かってないんじゃないのか。 そんな思考経路で、一度コンプリートせにゃ、と思っていたわけです。 やってみましたが、こりゃ講評者というものは数をこなしていくと、どうしても偉そうで傲慢なものになるのがよく分かりました……。 意地悪なこと書いてるなと思いますもんね……。 きっと恨みを買ってるなと実感できました。 で、挙げ句に講評漏れをやらかして、この論理だと自動的にまた参加決定……(^_^;)イタタタ。
それとリライトについては、まあ呼び水的な役割は果たせたかなと思います。 自分でも書きながら、「こんな感じにまとまる話なら、こことここの部分に何かエピソードはなかったのかなあ。採話の時にちゃんと聞くべきツボなんだなあ」等と思い、いろいろ得たものもありました。 「仮エピソード」とでもいうべきものを嵌め込んだ作品が出来、まだ草稿なわけですが、ちょっと気に入ってたりもします。
今年得たものは上記のようなものです。失ったものは、いいかげんな性格だとバレたことかな……(^_^;)イタタタ。 そんなわけで、超‐1は痛みをくれるある意味残虐な(笑)お祭りです。抜き身の講評が、ザックリと痛いところを突いてくれます。 痛いのが嫌な人は参加してはいけないでしょう。 痛みを切り抜けると……ちょっと変化した自分がいるかもしれません。
たぶん、怪コレの原稿を書いたり、直したりの過程まで含めて変化は続きますし、加藤さんとのやりとりや、最終的に本の形になるまでの経験を通して大きく成長できると思います。 少しそのエネルギーを分けて欲しくて参加したというのもありますが、ちょっとというか、かなり中途半端だったのが反省点です。 自分にとっての超‐1は「痛みをくれる装置」です。尻を叩いて、無理矢理怪談を書かせる酷い(笑)システムでした。 そこらへんのハードさは、今後変化していくのかもしれませんが、基本的なところはこのままであってほしいと思っております。 主催者、参加者の皆様お疲れ様でした。 鬱でなかったら、またお会いしましょう。
松村進吉
お疲れさまです。松村進吉です。 今日は、まとめっぽいお話をします。
「得たもの」 素晴らしい出会い、身に余る栄誉、使いづらいお金
「失ったもの」 モラル
「変化」 態度がふてぶてしくなりました。
「主催者へ」 自分のようなニッチもサッチもいかないアレを拾って頂き、本当にありがとうございます。 これからもどうか宜しくお願い申し上げます。頑張ります。
「超-1とは?」 僕は物心ついてからずっと、幽霊を信じていませんでした。 三度の飯より怪談が好きであることに嘘偽りはなく、様々の実話本を年中購読し、TVの特番は欠かさず視聴し、心霊写真心霊ビデオなどにどうしようもないくらい心惹かれまくってはいたのですが、では幽霊はいると思いますかと問われたら、「わかりません、でも多分いないんじゃないか」と答える状態でした。 大好きであることと、頭からドップリ妄信していることとは違います。 何かを盲目的に信じると云うことは、それ以上の検証を放棄すると云うことですので、言葉は悪いのですが一種の思考停止であろうと思っていました。 そして、思考停止の状態は、僕にとって大変居心地のわるいものでした。 この考えは、超-1/2006大会が終わる直前まで続いていました。
幽霊がいるかいないかと云う問いは愚問です。 今の僕は、そう思います。 只々その真偽にのみ拘泥し続けるのは、例えば「宇宙開闢以前の状態はどのようなものであったか」とか、「歴史の真実は」とか、「人生の意味は」とか云ったような、いくら考えても『正解』の出ない問題を前に、足踏みし続けるようなものだろうと思います。 今僕たちの前には、膨大な量の怪異報告が突きつけられています。 これだけの数の報告を受けながらそれらがことごとく検証不能であると云う事実そのものが、怪異の本質を如実に表していると思います。 検証行為は、こと怪異に関しては意味を持ちません。 真偽が本質ではないからです。 怪異を信じるか信じないかではない。 只、「体験談の実在」を受け入れるか否か。 本大会を経て、僕はようやく、何のてらいもなくそう云えるようになりました。
僕にそのことを気付かせてくれたきっかけが、超-1でした。 参加中には、何故書く、何故書くと主催者に問われ続け、以降も新たな怪異報告の津波に翻弄され続けながら、行きついたところがそれです。 この大会は、参加者講評者を問わず関わるもの全てに、「怪異とは何か」ではなく「あなたにとって」怪異とは何なのか、を教えてくれます。 それを頭ではなく体で、単なる机上の論理ではなく苦しみ続けた末の実感として、体に叩き込んでくれる場だと思います。
皆さんにとって、本年の超-1が実り多きものとなりましたことを願いつつ、最後までのご精読に心からお礼を申し上げます。 ありがとうございました。 それでは、また。 遠からず。
久田樹生
蛇苺、実力派怪談作家の皆様の総力を結集した一冊で、買わなきゃ損よ、そこの奥さん(ここまで挨拶)。 今回は少々長めに、ちゃかちゃかと書いていきますね。
超-1参加で失ったもの、って今のところないですねぇ。 あー強いて上げれば時間? でも、それはあまり正しくないような気がします。 逆に超-1参加で得たもののほうが大きいですよ。 まずは 「(以前よりちょっとだけ)世界が大きくなった」 「(以前よりちょっとだけ)視野が広くなった」 って、ことでしょうか。 たくさんの人たちと知り合い、いろいろなことを教えていただくことで、多くを学びました。 もちろんこれは「体験者」の皆様との出会いも含めてのことです。感謝してもしきれないことですよね。 また、書くことが仕事になったことで、自然と「日々是勉強」になりました。よって日常の全てが糧となっています。 勉強なんか大嫌いの劣等生からすると、これだけでもかなり驚くことなんですよ。拒否していたことが好きになっただけでも、かーなーり、美味しい。 人間っていうのは、変われるものなんですねー。 他にもたくさん得たものがありますが、ここでは割愛させていただきます。長くなりすぎるので。
主催者である加藤〈緑の魔神〉一氏と竹書房・O〈「超」有能編集者〉女史に伝えたいのは、 「いつもいつもご迷惑を掛けて申し訳ございません。そしてありがとうございます。これからも宜しくお願い致します」 ってーのと、 「でもぉ、ほんとーに自分でよかったんすか?」 という疑問でしょうか。 事あるごとに思いますもの。才能もなにも持たざるものである私を選んじゃってよかったのかな、と。もしかしたら魔が差したのかしらん? 正直、他のランカーの皆様のほうがね、才能のある実力派ですよ。ふんとに。 ……けけけけ。こんな駄目人間を選んだことを、いまさら後悔しても遅いぜぇぇぇ。
おほん。さて最後の質問。 『ズバリあなたにとっての超-1とは!?』 んー。今だから言えますが。
〈薔薇色の地獄に続く巨大な門〉
ですね。 ちなみに〈薔薇色の地獄〉は加藤氏の発言から。 事実、超-1っていうのは、大きな門なんですよ。 門番なんてものもいませんし、元より誰が入ってきても拒まないという性格を持っています。 ルールさえ守っていれば、それでOK、問題なし、です。 だいたい、そのルールでさえ「実話怪談であること」がメインであって、他の細かい部分は枝葉に過ぎません。 体験談と参加する意志、PCとネット環境がある人なら、誰だって門をくぐることはできます。 なんたって、私にも入ることができているわけですから。 ね? それ考えると巨大でしょ? そして気が付いたらいつの間にやらあの(あの、に傍点を付けて読んでいただきたい)「超」怖い話の著者の門をくぐっちゃっていたわけですが、これぞ青天の霹靂。本人も未だに不思議。あら素敵。 以来日本各地を飛び回り、たくさんの人に出会い、予想もしなかった体験を聞いて、またそこから新たなことを学ぶ。 そして、本になったものをたくさんの人に読んでいただくことで昇華されていく怪談たち。まさに薔薇色の日々。 なのですが。 それだけじゃないんです。ここははっきり書きましょう。 書くことは「仕事」なんです。 さあ、怪談を書くことが仕事になった場合を想像してみてください。どうですか? 頭に浮かびましたか? そうです、そうなんです。 事実、どの仕事とも変わらないんですよ。 例えば仕事って、多種多様な制約と責任と重圧と向き合っていかなくちゃいけないじゃないですか? 書く仕事も全く同じです。 おまけに「「超」怖い話を未来永劫続かせるための礎」としての責任がね、私たちにはあるわけでして。 やはり薔薇色だけじゃないのです。まあ、これを地獄というのはオーバーかも知れませんけれども。 楽しいことばかりではない、ということだけはご理解いただきたいところです。 ……本当の地獄はね、酷く怖い話を聞かされたあと、真っ暗闇の中、たったひとりで家路を急ぐ、ってのがね。 いつまでもこの恐怖には慣れません。や、ホントに。
おっと。話を戻しましょう。 だから「薔薇色の地獄への門」なんですね、超-1。 とは言うものの、基本的に楽天家の私からすると、薔薇色パーセンテージがとても高い状態を保っていますが。 しかしねー、門を通過したのはいいんですが、未だ出口見えず、なんですよ。それどころかいろいろな門を出たり入ったりしながら彷徨い続けているわけでして。出口なんか一生見えないんじゃないかな。 まさに無限薔薇色地獄! でもね、後悔なんかしていませんよ? 自ら選んで進んだ道です。 悔やんでいたって仕方ないですし。前を向いてどんどん進むだけですよ。くよくよしているのは性に合いませんから。 それにね、いま、もの凄く楽しく仕事してます。 良い仕事仲間に囲まれて、本当に幸せですから。 大変にありがたいことです。
超-1に興味を持った人たちに伝えたいことは……。 参加する気持ちが少しでもあれば、兎に角やってみるべきだと、私は思います。見る前に飛べといいますか。 「そうは言っても、文章を書いたことがない」? いえいえ、私もそうでした。 だいたい、実話怪談で読んでいただきたいのは「体験談」であって「この精魂込めた文章を読め」ではないわけです。 文章というのは、たくさんの人に伝えるために使う便利なツールのひとつでしかありませんからね。 極論を書くなら「他者に要点が伝わればいい」んですよ。 友だちに怪談を話すでしょ? その要領で書いちゃえば、ほうら。そんなもんです。 自分の裡にどろりと澱のように溜まった体験談があるのなら、どんな形でも良いので日の光の下にさらけ出して、浄化してしまいましょうよ。まずはそこからです。 おいでませ、超-1。魅惑の桃源郷。 怪談好きが大集合! ぽろりと地獄もあるよ! こんなぼんくらでもなんとかやっていますからね、きっと大丈夫ですよ、皆様。 もし来年も超-1があるのなら、どうですか? お、なんか話が大きくずれました。 そろそろまとめに入りましょう。
さて、今回でコラムも最終回。雨宮氏と進吉っつぁん、お疲れ様でした。そして読んでくださった皆様にはお礼の言葉もございません。毎回へんてこなことばかり書いて猛省中。 では、またどこかでお会いしましょう。 春とはいえ何故か寒い、東長崎スキー場から。
久田樹生
|
by 超-1実行委員会 ¦ 19:11, Thursday, May 22, 2008 ¦ 固定リンク
¦ 携帯
|
blogパーツ配布中
|