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いいにおいの
私が小学生低学年の頃、母方の叔父が京都の元は花街だったところに住んでいた。花街、というのはいわゆる昔の”男性の遊びどころ”が寄り集まった界隈の事である。
叔父がそのあたりに住み出した頃にはすでにその一帯からはそういった場所は無くなっていたが、客引きをするお姐さんたちが住んだ”置き屋”造りの古い木造家屋はまだ沢山残っており、叔父はその置き屋造りの家の一軒に住んでいた。
何の用事で行ったのかは覚えていないが、ある日、両親に連れられて私と、2つ下の弟は叔父の住む家へと訪れた。
置き屋造りの家は、外見は大きな屋敷の様なのだが、入ると中には路地の様な細い通路が奥へ奥へと続いており、その脇に各部屋の入口がぽかりと口を開けていた。
入口に引戸がついているところもあったが、大概は戸などなく向こうに広がる小さな部屋が丸見えになっていた。
置き屋造りの家に初めて行った私は、子供ながらにその光景を不思議に思っていると、それに両親が
「ここには沢山の部屋があるけど、叔父さんの部屋以外はのぞいちゃ駄目だよ。よその人の部屋だから」
と言った。
叔父の部屋は置き屋造りの奥の方にあった。
しばらくは叔父の部屋でおとなしくしてはいたものの、私と弟は大人たちの話にやがて退屈してしまい、部屋から外に出た。
私は暗い屋敷の中がいやで、明るい表へと出た。そして弟がついてきていない事に気付いた。
弟をちゃんとみていないと叱られる。私は屋敷の中へと戻った。
明るい陽の光の下から屋敷の中を見ると、置き屋造りの通路はまるで洞窟の様に見えた。
私は弟の名前を呼びながら通路の奥へと戻って行ったが、叔父の部屋の中にも、部屋の前を通り過ぎても弟の姿はなかった。
そして叔父の部屋から更に奥へと行くと、そこには小さな中庭が広がっていた。
弟はその中庭のすぐ手前の、屋敷の中で足を投げ出し後ろ手をついた姿で通路にへたり込んでいた。
私はそれに、弟が転んだのだろうと思った。
名前を呼ぶと、弟は目を見開けて酷く驚いた様な、そして今にも泣き出しそうな表情をしてこちらを振り向いた。
「どしたの。転んだの?」
と言うと、弟はまだ通路にへたばったまま
「……」
声もださずに首を横に振った。そして、
「知らんおばちゃんが…」

弟は叔父の部屋を出て、途中で私とは反対に屋敷の奥へと向ったらしい。
そして通路の奥に中庭を見つけた。
中庭にはテレビの時代劇で見た様な井戸があり、きれいに庭木や花が植わっていた。
弟は中庭に出ようとした。すると。
いきなり何者かに後ろから抱き付かれたという。
さほどきつく羽交い絞めにされているわけではないが、まだ小さかった弟にはどうする事も出来なかったらしい。その、急に抱きすくめられて驚いている弟の耳元に
「うふふ」
という女性の声が聞こえた。
「ほほほほ」
「くすくすくす…」
声は穏やかな笑い声だった。そして真っ白な手が伸びてきて、弟の右頬を撫でた…ところで。
私の声がして、同時に弟を抱きすくめていた者はいなくなったらしい。
「おばちゃん。どっかのおばちゃん。いいにおいの」
弟は半泣き顔で、不思議そうに言った。
私はその”おばちゃん”の姿を見てはいない。
ただ、弟が言う”いいにおい”というのはわかった。
あたりには弟が言っているらしい”いいにおい”がまだ漂っていた。
それは女性の化粧品のにおいだった。とはいっても今の化粧品のにおいではない。
昔の粉おしろいとお香と髪油のにおい…京都の街で舞妓さんや芸者さんと擦れ違った時にあたりに残香となってほのかに漂っているにおい、だった。

弟を立たせ、叔父の部屋に戻ると、大人たちはまだ何かを話していた。
”おばちゃん”の事は言わなかった。
帰りの、父が運転する車の中でも言わなかった。
言いたくなかったわけではない。しかし何故が言いそびれてしまった。
それからしばらくしてその時の事を弟に言うと、当の弟はもう覚えていなかった。

今は私しか覚えていない事である。




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■講評

 私も経験ありますが、とにかく京都の古い家というのは障子や襖で仕切られた部屋が多くてミステリアス!
 マニアには堪らない!昼なお暗い陰気な世界が広がっています。天窓の光なんかが廊下を照らしていて、そこだけ明るんですよね。ああ!気持ちがいい!
 そんな雰囲気が出ていて、とっても好きです。

名前: くすだまん ¦ 14:46, Sunday, Mar 09, 2008 ×


怪異としては弱いですが、「いいにおい」に惹かれました。
独特のあの匂い・・・
丁寧な文章に好感が持てました。

名前: 黒ムク ¦ 16:16, Sunday, Mar 09, 2008 ×


文章 1
読みやすいが、適度に行間を空けるともっといい。
稀少度 2
いかにも京都らしい怪談でした。

「どっかのおばちゃん」があっさり引き下がってくれてよかった。近くには井戸もあったんでしょう…?
見た目は綺麗な芸妓さん、舞妓さんも女ならではの悲しみがあったはずだが、単に遊び心で、弟さんをからかってみたのかな?


名前: くりちゃん ¦ 17:44, Sunday, Mar 09, 2008 ×


その「おばちゃん」が本物の人間ではなかった、と断言できる根拠には欠けるとは思うが、確かに「置屋」にはそういったことが起きそうな雰囲気はある。

名前: ナルミ ¦ 21:54, Sunday, Mar 09, 2008 ×


京都の風情や置屋の雰囲気が感じられました。怪異は微妙なんですが、惹かれるような文章力がそれを補っていると思います。幼い頃の淡い思い出といった感じですね。こういう味わうお話も良いなあと思いました。

名前: じゅりんだ ¦ 22:23, Sunday, Mar 09, 2008 ×


もう少し行間を空けて頂けると読み易いのだが。
京都の風情が出てるのは大変良いのだが、怪異に至るまでが些か長いような気がする。
怪異を弟さんが覚えてないのは大変残念。

希少性(1) 文章(0)

名前: ねこや堂 ¦ 01:50, Monday, Mar 10, 2008 ×


全体的に詳細な描写がされている割には、肝心の「知らんおばちゃん」が生きた者かどうかの書き方ががあやふやになっています。
「知らんおばちゃん」が生きていた者であった場合、この作品を読む限りでは本当に「知らんおばちゃん」が逃げ込めるスキが全くなかったかがはっきりとは分からず、
「私の声がして、同時に弟を抱きすくめていた者はいなくなったらしい」も、「私」は中庭に来る前から探す時に弟を呼び続けていたので、いつの声だったかも厳密には確定できません。思うに、この屋敷の中における距離感が全く示されていないのが、ここで起こる現象を曖昧にさせているのだと考えます。

「それからしばらくしてその時の事を弟に言うと、当の弟はもう覚えていなかった」は、お約束の展開ですが、この「しばらく」も、作品全体の詳細さに対してあまりにも漠然とした書き方で、期間的な開きがまったく書かれていないばかりか、どれくらい記憶が欠落しているのかが分からないのもどうかと思います。

結局この話の怪異っぽさを演出しているのは「客引きをするお姐さんたちが住んだ”置き屋”造り」や中庭といった舞台装置だと思いますが、それらしい仕掛けを読ませれば読者がそう思いこんでくれるという風に仕向けられているようにも感じました。

子供の頃の事なので不明な部分も多いかとは思いますが、書き方の曖昧さが裏付けに乏しい印象をもたらし、この話を怪異として受け取っていいのか分かりかねます。

よって点数はつけません。

名前: chidori ¦ 17:01, Monday, Mar 10, 2008 ×


文:+1 怖:+2

もう少し改行してもらえるともっと読みやすいと思います。

話は、なんというか。
怖いというよりも悲しいです。

名前: 晴 ¦ 19:27, Monday, Mar 10, 2008 ×


ネタ+1 文章+1
雰囲気がとてもいいです。情景がありありと浮かぶようです。
また、霊にからかわれた弟君の、怖さと甘酸っぱさが入り混じった様子がほほえましい。
ただ、香りに関する描写がストレートすぎるので、少し色香を匂わせる表現にしたほうが、この話をより活かせたかと思います。

名前: ねこ ¦ 16:03, Tuesday, Mar 11, 2008 ×


「私の声がして、同時に弟を抱きすくめていた者はいなくなったらしい。」のところが曖昧なんですが、急に気配が消えたとか、そういう意味なんでしょうね。
「いいにおい」と「白い手」はいい感じで面白かったです。
子供を抱きすくめるところにドラマ性を感じます。
希少度 2 文章0

名前: じぇいむ ¦ 03:48, Thursday, Mar 13, 2008 ×


置屋というより待合いですね。「おねえちゃん」じゃなくて「おばちゃん」と弟さんが言ったことにほのかな哀れさを感じます。怪異はそれほど怖くないです。

名前: ひ ¦ 15:35, Friday, Mar 21, 2008 ×


面白い話だと思います。
文章も分かりやすく書かれていますね。
向こうは軽いいたずらのつもりでやってきたのかな?
もしもそうだとしたら「おばちゃん」という言葉で相手を怒らせないでよかったです・・・。
ちゃんと「おねーさん」って言わないと。
子供は正直なんですよね。

名前: へみ ¦ 01:38, Sunday, Mar 23, 2008 ×


女性の様々なドラマがあったであろう場所ですから、その「おばちゃん」の意図もどんなものだったのかわからないですね。
ぞっとするような、温かいような、不思議な読後感です。 +1

「私」の語り口が、淡々としているけれど思い出しながら書いている丁寧さも感じられて想像しやすかったです。 +1

名前: 眠 ¦ 23:03, Tuesday, Mar 25, 2008 ×


文章・・・1
希少度・・・1

京都の、しかも花街を舞台にしたお話はいいですね。
怪談としては小ネタですが、場所が場所だけに絵になります。
小学生の書き手とその弟の気持ちの流れも自然に描けており、すんなりと読めて楽しめました。

名前: 鹿太郎 ¦ 13:03, Wednesday, Mar 26, 2008 ×


場所が場所なだけに、産めなかった自分の子どもや、置いてきた子供などを思ってつい、出てきたのかも知れませんね。
風情のある、悲しいお話で好みです。

名前: ちゅん ¦ 11:47, Tuesday, Apr 01, 2008 ×


これを怪異とするかどうか
迷った。 京都花街ときたら
風情があるためそういう事も
起こるだろうとは思うが。
判断がつけれませんでした。

名前: 茶毛 ¦ 13:15, Wednesday, Apr 02, 2008 ×


怪異は小粒ながらも、全体に漂うはんなりとした京風情
で成り立っている話のように感じた。
ところで、「置き屋造り」というのは正しい単語なのだろうか。

名前: 磯昆布 ¦ 01:42, Monday, Apr 07, 2008 ×


これ、もう少し来るの遅かったら何されてたんでしょうねぇ…?
あ、いえ。スミマセン。
割とさくさく読めて、面白かったと思います。

文章:1 内容:1

名前: PM ¦ 21:37, Wednesday, Apr 09, 2008 ×


白い手の部分は怖い。
でもなんだか悲しい話ですね。
白い手の主が遊女なのかどうかはわかりませんが。


名前: MM88 ¦ 12:06, Thursday, Apr 10, 2008 ×


においの表現が具体的で分かりやすかったです。
おばちゃん と言われて霊も複雑な気持ちだったのではないでしょうか・・・

名前: SPダイスケ ¦ 23:39, Saturday, Apr 12, 2008 ×


好み+1
味のある文章で、面白く読ませて頂きました。
怪異としては『手』と『匂い』だけとインパクトに欠けますが、描写もきちんとしていて良く纏まっているかと。

名前: 有線 ¦ 02:25, Thursday, Apr 17, 2008 ×


場所からして女郎の霊でしょうか? それほど悪い感じは話から受けなかったので、弟さんが可愛いので思わず抱きついてしまったのかな、と思いました。

名前: 久遠 平太郎 ¦ 22:01, Sunday, Apr 20, 2008 ×


 文は読みやすいが詰まっている気がします。
 匂いが残っていたので弟さんの気のせいとはいえませんね。住んでいた叔父さんには何も体験しなかったんでしょうかね?

名前: こうたろう ¦ 17:22, Thursday, Apr 24, 2008 ×


弟さんが可愛くて遊女がからかったのでしょうか。
少し悲しい感じもしますね。
文章もしっかりしています。

名前: 昼間寝子 ¦ 02:53, Tuesday, Apr 29, 2008 ×



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