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【コラム】怪談の旬
怪談には旬というものがあります。
発表時期について言えば、初夏から盛夏にかけてが怪談の旬ですが、ここで言う「怪談の旬」とは、「書き頃」について。

ここまでのコラムでは、実はいろいろととりまとめると矛盾のあることも言っています。
中でも、今回のテーマ「旬」に関係のあるのは以下の件。

(1)体験談は片っ端から書くべきだ
(2)体験談には書き頃がある。熟成期を見極めて書くべきだ

確かに矛盾してますね(笑)
ですが、これにはそれぞれ意味があるのです。

これは「なぜ実話怪談を書かなければならないのか」という問いに対する理由によって、選ぶべき選択肢が変わってくるのだということになります。散々繰り返してきた話ですが、実話怪談を書く理由というのは人によって違います。

実話怪談のネタになる体験談が、次々に舞い込んできて溺れそうになっている人は、まず(1)を試すべきでしょう。
自分の手元に集まってしまった体験談をできるだけたくさんの人に聞いて欲しい、一刻も早く「自分だけが知っている状態」を脱したいという人も、(1)を試すべきでしょう。
体験談を実話怪談に書き起こすというのは、「誰かに伝えたい」という衝動から起こるものだと思います。

また、「書くことで自己救済になる」という人もいます。誰かに読ませるためではなく、自分が体験した事を、「あったること」として記述して固定することで、体験者の自分と観察者の自分が対話するために必要なものとして実話怪談を書く、というもの。
これは、日記を書く行為にも似ていると思います。自分の個人的体験は本来書き残さなくてもよいことですが、書き残し、人目に触れるような状態に固定することで、自分自身の体験が気のせいではなかったことを確認し、受け入れる。そうした自律的自己救済行為として、実話怪談を【書かざるを得ない】という人は相当数いるようです。
そういう人にとっては、うまく書けているかどうかは重要ではなく、「書いて残す」ことが最優先になります。あまつさえ、次々に体験してしまうタチの人、次々に聞いてしまう人、体験談を持て余している人にとっては、「とにかく片っ端から次々に書いてしまうこと」が、何より重要である、ということになります。

片っ端から書いてしまったほうがいい理由はもうひとつあります。
それは、「上達」。体験談をただ書くだけでいいという行為は一種の自慰にも似ていて、それを読む人、聞く人といった自分以外の第三者的視点の人を念頭に置いていません。昨今のblogは別として、基本的に日記というのは人に読ませるために書くわけでないのですから、日記として書かれた実話怪談が読者を意識していないのは、当然のことでもあります。
そこから一歩進んで、「自分の体験を自分が確認する」から「自分の体験を他人にも確認してもらいたい」という方向にシフトしていくと、どうしても「第三者にもわかってもらえるように書く」という段階に進むことになります。
このとき、どうすればうまく理解してもらえるようになるのかというと、「書いて、見せて、意見を聞いて、それを次のものにフィードバックする」ということを繰り返すしかありません。短期間で「理解されやすい説明の仕方」を会得しようと思うなら、体験談を片っ端から書いてしまう必要が出てきます。
書けば書いただけ、そして書いたときに「読者がどう受け取っているか」を観察し、それをすぐに次回作に反映させられただけ、確実に上達(これは、理解してもらうためのテクニックが、という意味で)はします。

これと別の理由もあります。
聞いたときには怖かったのに、何度も人に語って聞かせているうちに、その恐怖に馴れてしまい、「その話のどこが怖いんだ」と自分で疑問に思うようになってしまうことがあります。恐怖というのは、馴れるものです。次に何が出てくるかわかっていうものには、恐怖を感じにくいものです。
その意味で、「それは怖い」と思ったときが書きどきだというのは、ひとつの真理かもしれません。何度も聞き直し、読み返し、聞いた話を方々で語り、それを繰り返していくと語り部の内部で、それは恐怖の対象ではなくなってしまいます。
語り部自身が怖いと思っていないものを、怖く書くことはできません。
だから、聞いた直後、新鮮なうちにどんどん書いてしまう。これは、恐怖の鮮度を保つためにも必要なことです。

【(1)体験談は片っ端から書くべきだ】は、このように「自己救済の必要がある人の、自分のための行為」或いは「自己救済の必要がある人が、自分の認識を他人に保証して貰う必要がある場合」、「文章執筆の訓練として」、「恐怖に麻痺してしまう前の、心情の保存技術として」必要になってくる方向性です。


一方で、(2)の【体験談には書き頃がある。熟成期を見極めて書くべきだ】というものについてはどうでしょうか。これは、(1)の段階を越えたところに、実話怪談を書く理由がある人にとって意味を持つことかもしれません。

ある程度の量をこなしていくと、書く側にとっても「馴れ」や「麻痺」が生じてきます。怖いと思っていたものが大して怖く感じられなくなるのは、よくあることです。「超」怖い話ではそうした傾向を「恐怖に対するインフレ」「怪談ジャンキー」といった言葉で表してきました。
そうなると、「もっともっと」と、より強力な恐怖を求めるようになり、その結果ますます「ちょっとやそっとの怪談」では、恐怖を感じられなくなっていきます。

もっと凄いものを探して、ちょっとやそっとの体験談は封印してしまう。
怪談を書き慣れた人がだんだん寡作になっていくのは、粗製濫造を辞めるからということもあるのでしょうが、それ以上に「理想が高くなっていって、ちょっとやそっとの体験談を怖いと思えなくなるから」というのが大きいかもしれません。

その状態が続くと、だんだん書けなくなります。
書けない日が続いたとき、書かないで封印してきた「大して怖くない話」を見直してみると、見落としていた何かに気付くことがあります。それが書き頃というべきものです。

体験談を聞き慣れ、怪談を書き慣れてくると、なぜ恐怖感が薄らいでくるのか。それは、「恐怖のパターン」、「恐怖のボキャブラリ」が豊富になってくることと関連があるように思います。
「そのとき背後で物音が」「横になっていると身体の自由が利かなくなって」
これは、実話怪談やホラー作品の中に、頻出するシチュエーションであり、そうしたものによく親しんでいる人は、その次に何が起こるのかについて容易に想像することが出来てしまいます。振り向いたら誰もいなかったり、目を開けたら白い着物の老婆がのしかかっていたり、といった定型を幾つも思い浮かべるようになるわけです。
そうすると、似たシチュエーションのものも「ああ、またあれか」と、早のみこみして、見過ごすようになってしまいます。

恐怖というのは、その先が読めない(=未知への畏怖がある)からドキドキし怖いのであって、「その先はこうなる、かも」という選択肢の想像が広がるほど、恐怖感が薄まっていきます。

もし、「何を見ても聞いても怖い気がしない」という段階にあるのなら、一度書くことをやめてみるほうがいいかもしれません。
もし体験談を聞き集める、それを実話怪談に書き起こすという作業が【もう必要ない】と自覚できているなら、それは怪談からの卒業または、実話怪談である必然(という名の呪縛)からの解放を意味しているとも言えます。
恐怖を渇望する理由が失われているのであれば、恐怖に拘泥する必然は必ずしもない、ということになりませんか?

しばらくの休息を置くということ=体験談を一度しまい込む、ということになります。
その体験談を怖いと思えなくなっているのなら、今は書き頃ではないということです。
これは、体験談の側の問題というよりは、そうした体験談と対峙する、書き手側の心理の問題になってきます。
「それは怖いのだ」ということに気付くようになるまで、一度体験談と縁を切ってしまう。ネタの書き頃というよりは、自分の書き頃が来るのを待つといったほうが、より正しいかもしれません。

実際のところ、体験談にはそれぞれ「書き頃」があるようには思います。
聞いた直後に怖くないのに、半年、一年と寝かせているうちに、それがとてつもなく恐ろしく思えてくる話というのはよくあることです。
そこから言えることは、体験談を怖がる能力(恐怖に対する敏感さ、センサー)を磨くことが、実話怪談を書けるかどうかの重要な鍵になっているようにも思います。
書き頃を見分ける能力というよりは、「怖がりになる能力」と言った方がより厳密かもしれません。

「よく似たバリエーションの体験談を嗅ぎ分けて、類似ネタを振り分ける選別能力」は、必ずしも重要ではないのです。
怖がる才能がない人が、当人が怖いと思わずに書いた怪談は、まるで怖くありません。
怪談は、体験者或いは著者自身の「恐怖という感情」を、文字やその他の手段で固定し、それを読者が追体験するというものです。著者自身が怖いと思わない怪談から、読者が恐怖を読み取ることを強いるのは、著者の職務放棄と言わざるを得ません。

(2)怪談の書き頃を見極めるとは、つまりは「それを書けるようになる自分自身になるのを待つ」ということでもあるのかもしれません。


以上から、
(1)はビギナー或いは基礎訓練のために書く人向けの方針。
(2)はベテラン或いは疲弊した人が自分を見つめ直すときの方針。または、スランプ脱出のための指針。

概ねそういうことになります。


例えはアレですが、少年野球団に入団したばかりの子が覚えるべきことと、プロ野球5年目の選手がスランプ脱出のためにすべき練習は、まったく同じではないということでしょうか。
自分がどの段階にいるのかを鑑みて、自分にとっての必然を最優先していくといいかもしれません。








by 加藤一 ¦ 09:09, Saturday, May 19, 2007 ¦ 固定リンク ¦ トラックバック(0) ¦ 携帯

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