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「実話怪談」と「実話風に書かれた怪談」は、似ているようで開きがあります。 実話怪談は、どういった方法で書かれているに拘わらず、「体験者が実在する」ということが最低限の条件になります。 「実在する体験者の体験は、実際にあったこと」という前提を著者が受け入れて書かれるのが「実話怪談」。 「(体験者が実在していないのに)体験者が実在しているかのように仮定して書かれる」のは、実話風怪談、という感じでしょうか?
実話怪談の成立条件は、本来は文体ではなく「体験者の実在の有無」にあるかと思います。 この部分が実話怪談著者にとって痛し痒しの部分でもあるかもしれません。 体験者が自分であれば、「自分の体験」「自分の存在が事実の証明」になります。 体験者が自分ではない場合、「体験者の体験の実在性をどう証明するか?」が、しばしば引き合いに出されます。その点だけ見れば、「証明できないならなかったことと同じ、故に実話怪談と実話風に書かれた怪談の間に差はない」という考え方にも一理あると言えるのかもしれません。
実話怪談の多くは、非常にパーソナルな体験の記録になっています。 体験者が三人以上の複数で同時に体験し、その体験を裏付ける証拠や痕跡を保存しているというケースも、もちろん中にはあります。 が、「目撃証言」のみであったり、「一人の時の体験で、誰もその体験を保証してくれない」ものがそのほとんどを占めているのも事実です。 このため、「頭がおかしい」「精神疾患」で切り捨てられてしまう体験談も少なからずあります。それが本当に頭がおかしいのかどうかは、第三者には判断できないものであるにも関わらず、です。
こうした、証拠のないパーソナルな体験をどう受け止めるかは、実話怪談を書く上で重要かもしれません。 「あり得ない。以上」で終えてしまうのも、それはそれでその人の選択でしょう。 が、実話怪談の元となる体験談が「なぜ語られるのか」を考えるならば、そこで立ち止まって違和感に目を向けるべきかもしれません。
怪談の多くは「誰かに話しても信じて貰えない」というものです。 その発端となったことを実際に体験したという主張ならば尚更です。 それを拾って書き留めていくのが実話怪談を書くという作業の本質であり、元の体験談をできるだけ忠実に再現するために、様々な技法や文章力表現力が求められるのだとも思います。
この「体験談を再現する為の手法」のひとつが、稲川淳二的語り口であったり、平山夢明的文体であったりするのかもしれません。稲川氏の本業は工業デザイナーだそうですが、かつてテレビ番組の企画で、「工業デザイン関連で受賞したときの様子を怪談調に語って下さい」というものがありました。所謂稲川調でそれを語ると、怪異がまったく発生しない喜ばしい受賞の模様すらも、稲川怪談風味に聞こえたものでした。プロだなあ、と感心する一方で、「手法(方程式)が確立されていれば、主題がなんであってもそれなりの風味にはなる」ということを再確認した貴重な例であったと思います。
昨年の超-1、怪コレについて、あれほどの秀作が集まった理由のひとつに、「超」怖い話的文体、或いは平山夢明の方程式が、広く普及理解されていたということがあります。 平山的技法、「超」怖い話的語り方で語れば、それは「超」怖い話のような怪談になるのではないか、ということの実証例と言えるかもしれません。
では、「超」怖い話の価値や、超-1/怪コレの怪談の本質は「平山夢明風の語り方」にあるかと問われれば、それが全てとは言えません。 先に、「平山氏の文体を真似ることは不可能ではないが、そこに代入される体験談を収集する嗅覚は、真似が出来ない」と書きました。 超-1/怪コレでも同様で、そこに代入される体験談の部分にこそ価値があるわけで、技法だけいただいて「実話風の怪談を書くこと」と、「体験談を実話怪談にして残すこと」の大きな違いは、やはりそこにあるのではないでしょうか。
体験談を再現するために文章力はあったほうがいい。 けれども、ベースとなる体験談を残すために必要な技術や技法であって、実話怪談について言えば、「体験談を探す取材力・見分ける嗅覚を主、文章力は従である」と言っていいように思います。
「体験談を探す取材力」と「見分ける嗅覚・洞察力」の間に、「凄い話に当たる運」があります。 運は鍛錬できません。 取材力と嗅覚が100万だったとしても、「体験談を再現する文章力」が、1000万だとしても、運がゼロの人は結果はゼロにしかなりません。 取材力がなくても、嗅覚・洞察力がなくても、運がなくても、文章力があれば実話怪談の技法の方法論だけを拝借して「実話風の怪談」を書くことはできますが、鍛錬できない運に左右される実話怪談はそうはいきません。 燃料のないエンジンは動かないのです。
実話怪談を書くことができる人がなぜ増えないのか。 なぜ、実話怪談を発表し「続けられる」人が少ないのか。 おそらく、そのあたりに理由があるのだと思います。 超-1に応募している人、応募された作品が「実話怪談であること」は、本来であれば希有なことなのです。希有な実話怪談が集中して集まってしまう、さらに希有な人材を見いだそうというのが超-1の趣旨でもあるわけですね。
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