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「その怪異が本当に在ったかどうか証明できないものは、実在しなかったのと同じことだから、嘘と考えて良い」 というような考え方もあるようですが、証明できて再現性が高かったら、それは怪談じゃないような気もします(^^;) 幽霊を見たと言われる場所に、同じ時間同じ人数で押しかけていっても、確実に幽霊が見られるということは、まず滅多にありません(まったくないとは言わないけど、特殊な例でしょうね)。 科学というのは、事象の原理を説明する学問で、正しい科学は理論/手法が確立されていれば誰もがその手法(方程式や実験手順)を踏まえることで、同じ結果を導き出すことができます。1+1は誰が計算しても2になるし、0に何を掛けても0にしかなりません。 つまり、観測者が変わっても観測結果に変化がないこと=科学です。
一方で、観測者によって結果が異なる場合。観測者Aは何度も心霊現象という特例に遭うのに、観測者Bはまったく遭わない場合ですね。 観測者Bは自分を基準にした場合、観測者Aはズルとしている、嘘を吐いている、頭がおかしい、と判断すると思います。観測者Aが正気ではないことを指摘・証明することが、観測者B自身が正気であることの反証になるわけですね。正気である自分(観測者B)の判断は正しく観測者Aは正気ではないので、その主張は信頼性がないという結論が得られてBは安心できるわけです。 大多数の観測者のうち、観測者Aは少数派でBが多数派だと思います。見えないのが普通、見えないという意見に賛同する人が圧倒的に多いから、見えない=常識的で正気、見える=非常識で頭がおかしい、という観測者Bの論理の後押しにもなります。
観測者AとBの差は、個々の能力差や環境など様々な条件による違いであるわけですが、AとBが同じことができず、Aが少数派であるからといってBが正気で正しくてAが間違っていると必ずしも断言できるわけではありません。 しかし問題は、Aの正気を証明する方法もない、ということです。 観測者A=体験者は、常に心のどこかで自分自身の正気を疑っています。 観測者Bの言うように、見えないのが当たり前、見えないのが正気、見えてしまう自分はおかしいのではないか、という疑いをどこかで持っているかもしれません。それ故に、見えなくて当たり前という常識(=正気)の中に隠れるために、「正気のつもりだが見えてしまう」という実体験を隠し、目撃体験を封じてしまうわけですね。 子供の目撃証言に比べて大人の目撃証言が必ずしも多くない(語られる場合も、子供時代の話として語られ、語っている大人の自分自身と区別していることが多い)のは、正気を疑われかねない大人の立場を守るためと考えると、説明付けできるようにも思います。
読者の大多数、さらに言うと読者にならない人の大多数は観測者Bにシンパシーを感じると思います。 それはありえないのであり、同じ方法で自分に再現できないことはないのと同じであり、自分と同意見の者が多数を占めている=自分は多数派に属しているのであり、多数派の意見は正しく正気なのであり、正気な自分の主張とそうではない観測者Aの主張を比較した場合、少数派の観測者Aの意見は否定されて当然。 これが、「幽霊見える? バッカじぇねえの? 嘘付くな。病院逝け」のメカニズムであるわけですね。
絶対に自分は正しい。正気である。正気である自分の判断は正しい。 という確信が揺らがないときは、自分と異なる意見は非常識として切り捨てることができます。自分が多数派に属しており同意見の援護が得られるということも、自分への自信を補強する材料になっているのかもしれません。 が、「本当に自分は正しいだろうか?」「多数派に属してはいるが、多数派全体が正しくない可能性があるのではないか?」「体験者=観測者Aは本当に嘘を吐いているのか?」という、前提にしている基準に疑いを持ち始めると、俄然、自分の正気が不安になっていきます。疑いは自分自身の正気に向けられ、間違いない、大丈夫、という安心感が徐々に崩れていきます。
自分が正気であるということが、揺るぎない事実だとします。 その場合は、「起きている問題がおかしい」「自分以外の観測結果は間違い」と断言できるのかもしれません。自分の主張に基づき何かを断定できる間、それは怖くはありません。
一方で、自分が正気であるという前提に、僅かでも疑いが持たれた場合。 自分は本当に正気なのか、ということを、自分や第三者の裏付けでも確信できなくなってくると、何もかもが疑わしく、怖くなっていきます。 しかも、「確実に幽霊がいる」「確実にどこそこに行けば祟られる」という保証がされているわけでもなく、「もしかしたらやっぱり自分は正気かも」という自信と、「そう思ってるのは自分だけかも」という不安の間を往復するようになります。 つまり、実話怪談というのは「事実を突きつけて価値観を崩壊させる」というものとも限らなくて、「読者自身の価値観や自信を揺らがせる」「読者が自分自身に疑いの目を向ける」ように導くことに腐心する読み物でもあるのかもしれません。
絶対あり得ないし、絶対にない。 そう断言できれば、安心が得られます。 怪談を読んで、「あり得ないから怖くない」という結論を確信した人というのは、怪談を読んでいながらも常に安心と安全を求めています。自分が正気であるということを、正気じゃないかもしれない他の観測者(体験者)の主張を貶めることで得ているわけです。怖がりじゃない自分を得て、それをアピールしようとすることが、すでに怖がりであることの反証なんですが(^^;)
「実証可能な外的恐怖を見せて納得させる」ということが難しい実話怪談は、読者の価値観・自信に疑問を投げかけ、読者が自分自身の正気を疑うようにし向けることに成功したときに、初めてその本領を発揮するように思います。「すべてが創作である」という絶対的な安心感の上に成り立つ怪奇小説・ホラー小説と実話怪談の違いはそういうところにもあるのかもしれません。消費目的も生産目的もいろいろ違うものなので、その意味でもどちらか一方のスタイルを基準にしてもう一方を評価するというのは難しいんじゃないかと思うんですが、それはまた別の機会に。
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