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超-1の最大の特色を挙げてみましょう。 ひとつは、「著者名を伏せて作品公開」。 もうひとつは、「一般読者、応募者自身が参加しての相互講評」。 この「講評」が結構厄介なんじゃないかと思います。 まず、応募数が多いと全部読まなくちゃならなくて大変。書く時間が惜しいのに、人の話も読むのは苦痛。読むだけでなく感想を書き、点数も付けないとならない。他人を評価するのは苦痛。加えて自分の作品についても評価を下さなくちゃならない。苦痛。 まあ、苦痛ですな(^^;)
全部読まなくちゃならない大変というのは、これは応募者に科せられた義務なんですが、怪談を出したら出しっぱなしにするなよ、ということでしょうか。 それと、読まれること、しかもできるだけ大勢の、趣味も好みも違う人々に読まれるということ。鍵の付いた日記にだけ収めておかずに人に読まれることを前提に発表する時点で、「不特定多数の人が読む」「そして読み手を書き手が指定することはできない」「書き手が予想しない読み方をされることを覚悟しろよ」ということでもあります。 書き手、つまりは他の応募者にも自分の作品を読まれることになるわけです。 これをライバルの注目に晒されると受け取ってもいいし、ライバルを悔しがらせていると受け取ってもよいでしょう。 「全部読まなくちゃならない」という条件が加わることで、「読まれることへの緊張感」は厭が応にも膨れあがって来ることかと思います。 それでいいんです。「読まれる恐怖」を、応募者自身も味わってください。読まれる、そして拒絶されるかもしれない恐怖が現実にあることを保証するために、それが参加者全員に等しく行き渡るように「全部読む」という縛りがあります。
人の話を読むというのは苦痛かもしれません。 自分より劣っていたら、読むだけ時間の無駄と思いたくなるかもしれません。自分より秀でていたら嫉妬しますし。でも、実話怪談を取材するときは、どうしてます? 直接話を聞いたり、メールで知らされてきたり、電話だったり、伝達経路は色々でしょうけれども、実話怪談という快適な形をまだとっていない、研磨していないダイヤの原石のような状態でごろんと転がっているのが、実話怪談の原型である「体験談」であることが多いのではありませんか? 自分よりうまく語れていない(もしくは、自分には不満が残る状態の)体験談が、未研磨であればあるほど、「もっとこうすればよくなるかも」という思いが募ったりする人は、体験談を実話怪談に磨き上げる作業をするのに向いています。未研磨の体験談、もしくは磨き足りない実話怪談を見聞きして、それらを「劣っている」と一刀両断してしまったら、そこから恐怖の核を見いだすことは難しくなってしまいます。だいたい、体験談の段階で完成しているんだったら、実話怪談に改めて書き起こす必要がないじゃないですか(^^;) 体験者が文章の専門外であるが故に完全に再現できていないものを、どうにかして再現するのが実話怪談じゃないのかな、と思います。 未完成状態の体験談、怪談を読む、人の話を聞くことが苦手な人は、少なくとも実話怪談を書くのには向いてないかもしれません。
そして、他人を評価するということの苦痛。 他人を評価するというのは、その人の価値観と自分の価値観を比較するってことでもあるんだと思います。「劣っている」と判断したなら、それは「自分のほうが優れている」または「自分の判断が優先する」と宣言するのと同じですからね。そう判断してはいけないという意味ではなくて、そう判断する以上は「じゃあおまえはどうなんだ」と反問される立場にも置かれるから覚悟してね、ということです。 ある一個人のみによる客観的な評価というのは、ないと考えています。 多くの主観的な評価がたくさん集まっていて、その中に多くの共通項があればそれが「主観的な感想の最大公約数」なのであって、それすら「もっとも多く共感された主観的感想」でしかないわけです。
他人の作品を評価すると、同時に自分の評価自体も評価の対象に入ってくると思います。 作品を書く能力と、講評をする能力が必ずしも同じだとは思いませんが、応募者はそのどちらもが注目されてるっていうことですよね。誰が注目するのかっていうと、それは主に実行委員会が(笑) 大会が終了するまで、誰がどれを書いた応募者なのかというのを全て知りうる立場にあるのは実行委員会だけですからね。 超-1はもともと実話怪談を書ける、見つけられる作者を捜す大会でもあるわけなんですが、実行委員会の注目しているところは、文章力の部分よりも「他者の怪談の中にある怪異の核を見抜く力」「自分を評価する冷静さと認識力」「向上心」「(いろいろな意味での)忍耐力」、そういったものを全て含めた総合力です。 発表された作品を見るだけだと、文章力と取材力しかわかりません。 他人の作品とどう向き合っているか、自分の作品をどう評しているか。直接お会いできない、面接もできない、という方々の、積極性や態度、そういうところまでを可能な限り多く知ろうと思ったら――講評をやっていただく、というのがいろいろ手っ取り早いんです(^^;)
実話怪談は、発掘して集める仕事です。 興味のない人から見ればゴミ同然の石っころに過ぎない、しかも泥を被って実体が曖昧でよくわからない状態の体験談を、磨く前の段階で見つけて見極める目も求められます。 その泥まみれの原石の持ち主の協力を仰げるよう、交渉し説得し信用を得ることもできなければなりません。体験談がなければ、実話怪談はできません。 そうして手に入れた体験談を、ようやく磨く段階に入るのが怪談を書くという作業工程です。 文章力、研磨技術はあるにこしたことはありません。 ただ、実話怪談に求められる文章技術というのは、「磨いて形作る」という技術であるようにも思います。 泥の付いた原石を洗い、時に不要と判断した箇所をばっさりと削り捨て、原石を宝石に変えるカッティングを施す。引き算の怪談と呼ばれる文章技術は、そういった方向性に発揮されるものです。ダイヤに何かを足してはいけない、というわけです。 存在しないオチを改変して付けることが許されない、実際よりダイヤを大きく見せることも許されない。大きいけれども歪な原石なら、いっそ思い切ってカッティングして美しい小粒の宝石に。引き算の怪談とは、そういう思想なのだと思っています。
ですが、どんなにカッティング技術が秀でていても、カッティングする原石がなければ何もできません。原石を手に入れるため取材をし、脈がある体験者=鉱脈が持つ原石を、片っ端から手に入れなければなりません。だまって原石を持ち去るわけにも行きません。鉱山の持ち主である体験者の信を得なければ話は始まりません。 見た目にはただの岩石に過ぎないものを、鉱山の持ち主だけは「これはダイヤだ。ダイヤなんだ」と言い張っているとします。それを、「あいつは病気なんだ」で終わらせてしまう人には、泥の下に隠れたダイヤのきらめきは見つけることができません。 未研磨の、まだ誰にも気付かれていない原石。しかも体験者自身が「信じて貰えない」と隠そうとしているような代物。そういうところにこそ、凄い原石があるんじゃないかと思います。
それを見いだすことができる能力を持っているかどうか? それは、作品を見ただけでは判断できません。 他人の怪談を原石に例えることができます。 作者の能力に応じて綺麗にカッティングされた宝石ばかりとは、必ずしも言えません。 時に、作者の力及ばず、不揃いなカッティングになっているものや、ほとんど原石のままゴロリと出されているものもあるかもしれません。 講評とは、そうした原石に対する「目利き」でもあります。 カッティング技術の批評大会だけが求められているわけではないのです。
応募者には、講評を通じて目利きを養っていただきたい。 一般審査員には、原石を華麗な宝石に仕立て上げた後の美しさをも楽しんでいただきたい。 体験者の持ち合わせた原石ができるだけ無駄にならないよう、世に残るものになるように尽力するのが、実話怪談を捜して書く人の役目なのではないでしょうか。
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